沿 革

History
  • 1.千里ニュウタウンの誕生
    1955年頃から都市部への急激な人口集中が始まり、千里丘陵に大規模住宅地の建設計画が決定、その後開発・建設が行われ、1967年から新千里南町の入居が開始されました。また、東豊中地区も同時期に逐次入居が始まり、発足当初の会員の多く人がこの時期に2つの地区に入居しました。
    1955~
    1970年
  • 2.日本万国博覧会の開催 
    1970年に千里丘陵において「人類の進歩と調和」をテーマに世界77ケ国が参加し、戦後の高度成長の象徴として日本万国博覧会が開催され、半年間で国内外から約6,400万人が来場されました。
    1970年
  • 3.青少年運動広場の開設
    1971年に青少年の健全な育成を目的に青少年運動広場が開設。その後、2015年に現在の「ニノ切少年球技場」に改称されました。
    1971年
  • 4.阪神・淡路大震災
    1995年1月17日の早朝に発生した阪神・淡路大震災により京阪神地区は甚大な被害を受けました。豊中市は兵庫県以外では最も被害が大きく、特に兵庫県に隣接する南西部が家屋の全半壊など大きな被害を受け、豊中市では市内の各運動場などに仮設住宅を約900戸を建設し、ニノ切公園青少年運動広場にも仮設住宅が建設された。(同年末に仮設住宅は撤去)
    1995年
  • 5.黎明期
    新千里南町・東豊中地区に入居し定年退職を迎えた発足当初の会員が健康維持の為、青少年運動広場でのラジオ体操に参加する中で自然発生的に野球好きが集まり、キャッチボールを始め、次第にその仲間が増えて、その後のニノ切野球クラブの母体となりました。この時の青少年運動広場は仮設住宅撤去後の砂利が多く残り、野球の練習をするには程遠い状態であった為、練習時間の約半分はグランド整備(除草・砂利除去)に明け暮れ、このグランド整備習慣がその後現在まで引き継がれることになる。(現在の早朝野球の原点)グランドがまともに使えない中、服部緑地公園球場・桃山台球場などを借りて、現役時代の人脈・伝手を頼りに試合相手を探して練習試合を行って来ました。
    1996~
    2005年
  • 6.ニノ切野球クラブの誕生
    2006年に大阪南地区及び北部地区各3チ-ム合計6チ-ムによる「関西おやじリーグ」のリ-グ戦に参戦し、グランド使用に際し豊中市への届け出が必要となり「ニノ切野球クラブ」が結成された。その後、南北地区ともにチーム数が各々4チ-ムに増えた為、2013年に大阪南地区と大阪北部地区に分かれて現在に至る。
    (歴代監督 )
    2006年:佐藤孝夫、2009年:大嶋宏秋、2011年:白髭好彦、2013年:吉田 孝、2015年:大泊圭佑、2017年:浦上 豊、2019年:山根喜一郎、2021年:浜 真人
    2006年